緑看院は法と治癒を司る治務卿=ラミン家の管轄する組織であり施設だ。それはすなわち、寐床(ペーレ)を司るというのと同義である。
寐床とは今の言霊人の生命をつなぐ維持装置。定期的に──だいたいは1日に一度、最低でも3日に一度、身体を漬け込む必要がある。
その機能はマナの生成および摂取、老廃物の除去、皮膚の再生と多岐にわたる。
蛮族……神人たちが食物を摂り、風呂に入り、睡眠をとり、排泄するのと同じ役割を、すべてこの筺がまかなうのだ。
かつて言霊人という種が誕生したときには、こんなものは必要なかった。「未分化のマナ」が世界を満たし、言霊人は息をするだけでも生きてゆけたとされている。言葉を媒介に、世界から直接エネルギーを摂取することのできる生命体。ゆえに混沌たる原初の人界に生きられる唯一の種として、降された。
時が流れ下り、世界は姿を変えた。マナは七要素へと分化され、濾過されて物質となり世界を埋めた。言霊人も変わった──力を失う方向へと。
今や言霊人は、時流に取り残された抜け殻にすぎない。
海綿に水を含ませるようにして、萎れた身体に力を満たしてやらなければ、ただ生きることすらできなくなってしまった。
滅びを待つばかりの、無力な種。
それを誰よりもよく知っているのは、統治者たる七家議だった。
だが彼らには、真実を吐くことは許されない。
何をしても民を救わねばならないし、希望はあると、言い続けなければならなかった。
それが、つらい。
何もかも投げ出してしまいたい。我らは世界に見捨てられたのだと、言ってしまえたらどんなに楽になるだろう。
だがそれを言葉にしては、全ては終わる。本当に、終わってしまう。
これほどに痩せ細ってしまった未来でも。渡すべき相手がいるうちは、投げ出すことは絶対に、許されない。
「……天務卿? お聞きになっておられますか?」
紫の瞳が、まっすぐに見つめる。どんな話をするときも、どんな感情に駆られていても、彼の言葉は明瞭だ。天務卿はすこしだけ瞳をみはった。
「聞いている。続けてくれ」
ヴィンは頷き、寐床へ向けて手をかざす。
緑看院の寐床には、通常の寐床にはないさまざまな機能が付与されているから、いちだんと厳つくできている。中の人の様子が詳細に分かるモニタも、機能のひとつだ。
マクエーク緑看院には、ディスガバンから逃れてきた兵が数名、収容されたところだった。以前にも、近隣の圏から負傷兵を受け容れているから、すでに全ての寐床がいっぱいだ。このうえ、竜の戦士が襲来するとあっては──たとえ圏が守れたとしても、そのために負傷した者の命が救えないのでは本末転倒だ。帝国兵は漏れなく、言霊人の言霊人たる力=術法を使うことができる者の集合である。可能な限り、犠牲は少なくしなければならない。
「見てください。胸を割られています。棍棒のような原始的な兵器のようですが、威力が尋常でなかったということですね。翅生がなければ、即死していたでしょう。また彼以外はすべて、頭を狙われています」
モニタには、負傷部位を示す図が浮かんでいる。ヴィンが手を振ると、他の寐床のモニタに映すべき図像が次々と呼び出される。
「翅生を着ていない所を狙われているのか……」
蛮族といえど知性体であると、認めざるをえない。敵の攻め手は時とともに巧妙さを増す。一人が生き残れば、その一人が他の集合へと伝える。こちらの弱味が、そうして全ての群に知れ渡りつつあるというわけだ。
天務卿とヴィン、ふたりの語らう背後を、看護士の女が駆け抜けてゆく。時を同じくして、ヴィンの呼び出した図像のひとつが、真っ赤に染まった。──寐床のどれかの中の人が死亡したのだ。
ふたりは目を合わせ、しばし言葉をなくした。ひとつ寐床が空いたということでもあったが、その数を数える気には、とてもなれなかった。
「天務卿」
沈黙を破ったのは、ヴィンのほうだ。
「邦都に、お戻りください」
唐突な提案に、天務卿はおどろき、激しく首を横に振った。
「何を言っている! 君は、私に逃げろと……!?」
「そうでは、ありません」
ヴィンのやわらかな声が、包み込むように投げかけられる。天務卿は口を閉ざした。
ヴィンは続ける。
「邦都には、空の寐床がまだ百くらいはあるはずです。今ここにいる者たちを寐床ごと待避させ、かわりに邦都のをこちらへ据えるというのは、どうでしょう。できませんか?」
「うむ……」
天務卿は考えこんだ。
ヴィンの案を実行するとなると、その動作は天務卿自身の管轄になる。功務卿が健在であった時代にはこの種の転移輸送は頻繁におこなわれていたが、今は門の力を借りないと難しい。マクエークと邦都をつなぐ門はどちらも正常稼働しているから、双方の転移基準点をずらせば可能だろうが、その設定変更にはたしかに、天務卿がいったん邦都に戻る必要があった。
「蛮族の到達予測は?」
「2日後の、夜です」
「……」
ただちに、工程を思い描く。邦都へ行ったり戻ったりするにも門を使うから、邦都がわの設定が先だ。邦王への認証許可と炎務卿への通達に2刻。実際の設定から起動するまで、3刻はかかるだろう。起動を確認したらただちにマクエークへ戻り、マクエーク側の門を設定し直す。なるほど、2日あれば充分間に合いそうだ。
「わかった。君の案を容れよう。となると、早く動いた方がよいな」
ヴィンは頷き、そして──とても嬉しそうに、微笑った。
「夜襲だな」
山ごしにマクエークを遠く見下ろしながら、竜の戦士は唸った。
ツァンの視伺者がマクエーク圏の見取り図を差し出す。麻布に燈灰の墨で描かれたものだ。帝国のように見たものを見たまま転写するすべなど無いから、すべては視伺者の画才次第である。さいわいこの女戦士は筆のうまいほうだった。
「夜襲ですな」
大刀を負った男が相槌をうつ。「いかにも蛮族らしくて、好みです」
「俺はそこまで言ってねぇんだが」
竜の戦士は苦笑した。
「言霊人好みの蛮族像を演じてやるってのもまぁ、趣向として悪かねぇが……糧食もそろそろ尽きるし」
積み上がった穀袋を叩く。たくさん、と見えるが、五千人で割ったら二食分に足りないだろう。
「食い納めのつもりで、全部腹に入れておくか。生き残れたら、ムラガに何とかさせるつーことで……」
「そんな甲斐性、あの男にあるかしらね?」
弓を携えた銀髪の女が揶揄したので、戦士達はげらげらと笑い出した。
竜の戦士もひとしきり笑った。笑い疲れたところで、続ける。
「帝国兵はどうやら、俺たちより目が悪ぃからな。夜のほうがいいだろう。もっとも、紫の髪のやつは、わからんが」
「無茶言わないでよ」
ツァンの視伺者は眉をしかめた。
「あの圏の帝国兵は紫の髪ばかりよ。そりゃ、目で私に勝てはしないでしょうけど、貴方たち黒竜と比べたらどうかしら」
「今日は頂月の日だ」
竜の戦士が無造作に言うと、一同はしん、と息を飲み込んだ。
頂月とは、光の月セレネがもっとも高く昇る日のことである。
もっとも夜が明るい日。ナーガの神官によると、今日から数日はおおむね晴れるというから、なお都合がよい。
日が沈みきってから一刻あまり後。独立軍の戦士たちは、マクエークを臨む山裾へ、ひたひたと寄っていた。
圏全体が紫色の淡い光に包まれている。
術法防護。
炎のようにゆらめく力場が、城壁のひとまわり外に壁を築いている。
「破るか」
まるで薄布でも見たかのように竜の戦士が言う。竜旗を大きく振ると、弓を持つ者たちがいっせいに射始める。雨のように降り注ぐ矢はしかし、すべてが力場に弾き出された。
「神器をもってしなければ、破れぬようね」
さきほど見取り図を差し出したツァンの視伺者──闘神アシュラの神官でもある女戦士がつぶやくと、竜の戦士は振り返った。大きく肯く。女戦士は不敵に笑い、手に携えていた槍を傍らの者に預ける。かわりに輜重車に積んだ大弓をとり、矢を番えた。他の3倍はあろうかという太い矢柄、炎貴石の鏃をそなえた矢だ。きりきりと弦を引きながら、高らかに謳う。
「勝利を約せしわが黄金の炎よ、力を与えたまえ。……烈炎矢!」
弦によらぬ力が、彼女もろとも弓矢を激しく包み込む。撃ち出された矢は他の矢を焼き落としながらすすみ、紫に燃える壁をやすやすと通り、マクエーク風端(風方=南の端)に立つ碑に突き立った。
ぴしいっ、と澄んだ音が響いて碑がふたつに割れる。
と同時に紫の壁は沈むように消え失せた。
竜の戦士は碑のもとへ駆ける。整然と、他の者達も続いて走った。
また、竜旗を振ると、戦士たちはいっせいに鉤爪を投げ上げた。
カン、カン、と城壁に爪が食い込む音。
我先に繋いだ綱をたぐり、城壁の上へと這いのぼる。ここでもやはり、一番乗りは竜の戦士だ。がっしと、壁道の上面を足指で掴むようにして立ち、竜旗を掲げる。
──我こそは、竜の戦士。
本人が音に出して名乗る訳ではないが、白々しく影をはなつ月を背に立つ姿を見れば、誰しも耳にその声を聞くだろう。
旗を大きく振って投げ下ろす──その過程でうまく揚力を得て、一気に飛び降りる。竜の戦士のいつもの突入方法だが、帝国兵は呆気にとられた。まさかこの高さを、術も使わず飛び降りる人間が居ようとは!
着地したとみるまに、余勢を駆って突進、剣を抜く。抜きはなった瞬間、既に数人が肉塊と化す。死をもって道をひらく戦神。敵には恐怖と絶望を、味方には畏怖と未来を。その圧倒的な力。
一拍おいて落下する竜旗。竿尾を引っ掴み、大きく薙ぐ。幻惑され、あわてて後退る帝国兵たちの背に、無数の刃と矢が降り注ぐ。
これは、違う。
闇に隠された帝国兵たちの表に、恐怖の色が宿った。
これまでに相対した蛮族とは、あきらかに違う。敵せない。
ふつうの兵が敵わぬとなったら……彼らの頼る力は、ひとつしかなかった。
マクエークの中央、六角の柱塔のなかにある転送室。
マクエークの要すなわち門のあるこの場所に、天務卿とヴィンは居た。
転送される者は、起動のその瞬間に六芒紋の中に居なければならないから、代わってヴィンが端末の操作を行うことになる。天務卿に背を向け、黙然と設定を続ける──それが少々長すぎるように感じたとき、室にヴィンの部下が駆け込んできた。
「申し上げます!」
ただならぬ凶相、天務卿は足を踏み出しかけたが、ちょうど六芒から垂直に放たれた光に阻まれた。光は柱状に展開され、天務卿のまわりの空間を切り取ってゆく。
何事かと、聞こうとしたとき、
どおおおおおん
と、耳が破れそうな音と共に端末が砕け散った。
一瞬、ヴィンの身を案じたが、振り返った彼の表情を見て、天務卿は叫んだ。
「何をする!」
笑っている。
そうだ。事故ではない。ヴィンが爆破したのだ!
「まさか、敵襲が2日後というのは嘘か!」
ヴィンは微笑むだけで、答えない。そうしている間にも、光の柱は確固たる線を描き、ヴィンの居る空間とこことを切り離してゆく。たまらず、手を伸ばした。──届かない。
「ヴィン君、転送を止めてくれ!私は……私は!!」
世界の理に阻まれる。わずかな距離に見えるのに。たった10歩かそこらなのに。既にもう、触れることすらできない。
声をからして叫ぶ天務卿に、ヴィンはまた、微笑んだ。
「あなたは民の父だ。死んではなりません」
ああ──とうとう、姿さえ歪む。空間の歪みと、涙で曇った視界とで。
見えなくなってしまう。
「天務卿……ご武運を」
その声はたぶん、届いたはずだ。
天務卿の姿は光の粒となり、ヴィンの前から消えていった。
光の残滓を名残惜しげに見つめるヴィンに、部下が走り寄る。
「ヴィラン節下!」
ヴィンは振り返った。
「わかっている。来たのだろう、竜の戦士が」
頷いてみせる。
「いま、私が出る。これ以上お前たちを損なうわけにはいかない」
「節下……!」
唇をわななかせるその男の髪は、ヴィンと同じ、紫の色をしていた。代々仁務卿に仕える家の者だ。
「……何故、逃げなかったのですか!」
ヴィンよりも頭ふたつ大きなその男は、掴みかからんばかりの剣幕で叫ぶ。ヴィンは不思議そうに首をかたむけた。
「私はマクエークの都護だよ。ここを守るのは、私の使命だ」
「違います……!」
男は血を吐くように言葉を押し出した。
「御身の価値は、ただ七家議の一角であるというに限らない。一圏の都護などという、小さなものでないのはなおのことです。我らアフネリアの民を救い導く可能性を、志をもつ、七家議最後の尊姿だ」
そう言って、天務卿が去ったあとの六芒紋を恨めしげに見つめる。
「あの天務は妻子への妄念に囚われたままで、息子はいまだ呆けたままと聞く。炎務の子女おふたりはすでに亡い。邦王は后に先立たれ、治務はそもそも子を為せず、封務のご子息はごく幼いうえ、七家議の資格だって、持つか持たぬかだとききますよ。御身だけだ、我々の、最後の希望は。なのにそれを、今ここで擲つとおっしゃる……!」
「ひどいことを言うね。天務卿は立派な方だよ。息子さんだって、今年の首席だ」
ヴィンは悲しそうに、男の言を否定した。男はうつむく。
「そりゃあ、あの方が悪人でないことは存じておりますとも。しかし、あの方が生き延びたとして、我々の世界に平和と安寧をもたらしてくれるとは、とても思えない。なにより……」
と、男はヴィンの目を見すえて言った。
「我々はあの方でなく、御身の部下です、ヴィン=ヴィラン都護節下。我々の未来とは、節下御自身のすこやかな御成長であり、御志のもたらす世界のこと。それを奪おうというのだから、あの方に好意をもてるはずがない」
「私の意志だよ。あの人の望みじゃない」
「同じことです」
男は深い深い溜息をついた。「節下。どうかお考え直しください。竜の戦士を倒せば、たしかに戦線は回復するでしょう。しかし御身と引き換えにしては、この国は永遠に光を失う」
「買いかぶりすぎだ」
ヴィンはゆるやかに苦笑した。
「私は目の前の責務を果たすだけだ。それが帝国のためであり、ひいてはお前たちのためだろう?」
「御身はなぜ……!」
男は我をわすれて手を伸ばした。ヴィンの肩をかき抱く。
「……ご免」
ヴィンはつぶやいた。
「お前たちの期待は、知ってるつもりだ。だけどね……私は」
ふっと、息を吐く。その言の葉の硬さに、男は息をのんだ。
ヴィンは続ける。
「私にとっての帝国は、あの人だから。あの人を失った世界なんて、意味が無いんだよ」
司令室の窓から見下ろすと、マクエークを一望できる。美しかった街路が無惨に打ち砕かれ、炎を上げているのがよく見える。ヴィンの目にはなおさら、はっきりとわかった。
「ふう……」
大きく息をつく。
黒い鞭のように、撓りながらも確とこの塔をめざす者が居る。あれが、竜の戦士だろう。
……どちらかがやらねばならぬことだ。ならば、自分がやる。
帝国からマクエークを預かったのは、そもそも、自分のほうだ。
「この街を、蛮族には渡さない」
つぶやいて、部屋を振り返ったヴィンの目に、ちらちらとゆらめく光がうつった。
天務卿がいつも見ていた静止映像だった。歩み寄る。
左には若い女性と幼子2人が映っている。天務卿よりも淡い金の髪、長身だがほっそりとした女性らしい体つき、天務卿夫人レミュ=ラアトのありし日の姿。賢く美しい人で、自身も研究者として知られていたという。レミュの腕に抱かれているのは、判定の儀を経て七家議の力を認められたばかりの次男、ジル=イリル。ヴィンと同年くらいの生まれだが既に亡くなっている。レミュに寄り添って、こちらを向いて幸せそうに笑っているのが、今の天務卿に残された唯一の家族、長男のガル=イリル。
右に映るのは、ガル少年の2、3年前の姿だろうか。軍学校の正服を着て敬礼している。りりしく、少しはにかんだような笑顔。
彼らすべての瞳が、やさしく天務卿を見つめていて、天務卿は、愛おしそうに見返していた。天務卿を迎えた日からずっと、同じ映像が壁に飾られていた。
これを初めて見つけたとき、ヴィンの心は躍った。映像の中に入りたいと思った。
そんなことは叶わないけれど、せめて、この「優しい家族」を守りたいと──
「……ふふ」
ヴィンは表情を崩した。
一時凌ぎに過ぎないことは、分かっている。
天務卿がたぶん悲しむことも。
それでも、失いたくなかった。
自分が選んだ道だ。だから何も、悔いはない。
そっと右手を振る。ふたつの映像は光の球となり、壁に溶け込むように消えていった。
街路に居た帝国兵をあらかた片付けてから、竜の戦士は近くの戦士たちを糾合した。
百の帝国兵を倒すのに、二千ほどの戦士が死ぬか負傷して退却の機を窺っている。帝国側の練度が高いのか、最近にしてはひどい損傷率だが、他の隊に比べればそれでも倍か3倍ぐらいには効率がよい。
「やはり、要はアレだ」
と、六角の柱塔を旗で指し示す。
「『水晶剣』によれば、ここに敵弾2発ということだが、まだそれらしい奴は出てねぇ。ということで、アレに突入するから、命の惜しくない奴は俺に続け。適当に惜しい奴は、外で遊んでてくれ」
「この期に及んで、惜しいも惜しくないもないですよぉ」
誰かがおどけるように言うと、戦士たちはいっせいに笑った。
「よし。行くか、馬鹿ども!」
応、と喊声が起こる。竜旗が高く打ち振られ、打ち下ろされた。
喧噪が近づいてくる。怒号、剣刃の打ち交わす音。しかし、塔の扉は、他の建造物とはわけが違う。いかに獰猛な蛮族とはいえ、蹴破ることはできないようだった。
と、赤い力が視えた。炎務の力に似たその力は、扉を成す石を穿ち、砕いた。
踏み込もうとした蛮族が見えない壁に弾かれたのを見て、ヴィンは笑った。
「竜の戦士といえど、術法防護は人並みに効くようだね」
帝国の紋の中央に立ち、紫の光を全身に漲らせた少年の姿を見て、竜の戦士も笑った。
「俺も大物になったもんだと、感動するなぁ。出迎え大儀である、とか言った方がいいのか、『次期仁務卿ヴィン=ヴィラン』」
ヴィンは目をみはった。
「蛮族が、我々個人の名前まで知っているとはね。驚いた」
そう言う間にも、ヴィンの光は眩しさを増す。竜の戦士の背後では、件のアシュラ神官が三本目の矢を番えている。ヴィンの力が発効するか。防護壁を破り、竜の戦士の刃がヴィンに達するのが早いのか。その、勝負だ。
「勝利を約せし黄金の炎……」
竜の戦士は竜旗を投げ出し、剣を腰だめに構える。
後の世に疾剣の奥義と伝えられる、潜竜の構えだ。
ヴィンの髪を束ねていた翅生の帯が千切れた。風に煽られるように、髪が逆立つ。
「我に力を──烈炎矢!」
竜の戦士は、その口訣が終わるのを待ってなどいなかった。矢が不可視の壁に届く、その数分の一秒後の瞬間を測って、地を蹴る。同時に、無数の矢が放たれた。竜の戦士はまっすぐに跳ぶから、その軌道を避ければ彼に当たることはないと踏んでのことだ。
「殺った……!?」
竜の戦士が漏らした瞬間。
純白の光が、溢れた。
竜の戦士は手元を見た。刃が確かに貫いたと見えたのだが……そこに、ヴィンの姿はない。顔を上げると、白い光の中、さらに数歩のところに、穏やかに笑っている。
歩み寄ろうとしたが、距離が近くならないので、現実でないと分かった。
「これは、やられたな」
竜の戦士は剣を納めた。その、仕草をしたのだが、すでに手に剣はなかった。
「幻か?」
「違うと思う」
ヴィンは笑った。
「七家議の力は御し難いものだね。誤って殺してしまうかと思っていたんだけど、誰も死んでないみたいで、よかった」
「誰も? おかしなことを……」
「私の部下は、誰もね」
ヴィンはいっそう微笑んだので、竜の戦士は得心した。
「俺たち『蛮族』ははじめから殺す殺さないじゃねぇわけだ、虫の駆除の扱いか。帝国のエラい人間は、そうでなくちゃあなあ」
「人の力は視覚、情報、そして魂。君たちの魂はすべて、私が奪った。このまま潰すよ」
「全滅ってことか。そりゃ、参ったな」
竜の戦士は頭をかいた。
「まー、俺に限らず、さんざ殺してきたからなぁ。こんなもんか」
「蛮族の価値観は分からないな。罪悪だと思っているのか? 我々、人を殺したことを」
ヴィンは首をかしげた。
「まさか」
竜の戦士は苦笑する。
「こっちだっておんなじだ。同族を生かすためなら、相手が神だって殺してやらぁ」
「気が合うね、案外」
「ンな訳ねぇだろ、クソ野郎」
……光の白に塗りつぶされるように、竜の戦士の意識ははじけて、消えた。
とたん──現実のマクエークでは、紫の光がはじけていた。
外壁を、外壁の外の山ひとつ外まで覆い尽くし、波のように揺れる光が、数刻に渡って漂い続けた……
その頃ブロスは、スイモミスク郊外に居た。
マクエークに天務卿が居ると知って、ブロスはあらためて炎務卿の配慮に感謝した。
ブロスは生後すぐ、二度にわたって生命の危機に遭っている。
一度めは、生命体としての危機だ。言霊人の赤子は生後しばらくは専用の寐床の中で育てられる。蛮族の赤子は母体から分泌される白い液体を吸って食餌とする。だが半蛮族であるブロスは、そのどちらとも異なった生命だった。飢餓状態に陥った彼を手を尽くして救ったのは、亡き天務卿夫人レミュ=ラアト……ガルの母親である。
そして二度め。政治的危機だ。七家議のひとりたる者が蛮族と子をもうけるという最大級の不祥事、当然その結果たるブロスも抹殺されるか、さもなくば蛮族の中へ投げ捨てられるはずだったのを、子に罪無しとして言を尽くして助けてくれたのが、天務卿ユオザ=イリル、その人だった。ブロスにとっては大恩人だ。
都護補佐着任に遅れぬように、せめて門の位置を前日のうちに確認しておこうと、地図板を手にスイモミスクの街中を歩き回る。これまでは、半蛮族への蔑視のまなざしを憚って人の多いところには行かないようにしていたのだが、卒業章……階級章を得た今は、胸を張って歩くことが出来る。
マクエークへの門の入口へ辿り着いたときには、日が暮れていた。門衛にかけあって中へと入れてもらう。通路の奥に六角の小さい堂、六芒の描かれた陣、壁ぎわにある端末で制御するのだろう。軍学校の中にある実習用の門より数倍、大きい。……少々蜘蛛が巣を張っていたり、モニタの湖石が欠けているのは、歴年の使用に耐えてきたのを物語っているようで、むしろ誇らしかった。
さて、ときびすを返しかけたとき、背後の陣に閃光が走った。
誰かが門を使用している。ここへ、転移してくる。
門衛があわてて駆け寄ったのをみると、想定外の事態のようだった。ブロスはせっかくなので見学していくことにした。
床の六芒がまず、青白く光りはじめる。光はやがて円筒状の柱となった。光の柱の中央部に繊維状の光があらわれ、よりあつまるようにして大きくなってゆく。やがてそれは人の形をとる。金の長い髪、裾の長い正服、金のふちどりの数は2本──
「天務卿!?」
これから会いにゆくはずの。
どうして、とつぶやいたとき、別のほうからばちっと大きな音がした。
「……!!」
端末が、火花を発している。
光の柱の中の天務卿は、何度も内側から柱に触れたが、その柱が完全に消えるまでは、こちらの様子は見えても外には出ることができないようだった。
光が消滅した瞬間、端末へと駆け寄る。
「天務卿……?」
ブロスの声も姿も、まるで認識していないようだ。
眉をきつく寄せ、唇を結んだ表情は、怒っているのか、と見えたが、
「ヴィン君……!!」
押し出した声の色を聞いて、泣いているのだとわかった。
くりかえしくりかえし、むやみに端末のパネルを押す。反応は、ない。
先刻の火花……とうとう、この門も壊れてしまったのだろうか?
「くっ……! 通じん……!」
端末に掌をつき、深くうなだれる。涙のつぶがいくつも、モニタの上に散った。
そのとき、
ポーン
通信音がした。この端末の機能にはないはずの音だ。天務卿ははじかれたように顔を上げて叫ぶ。
「ヴィン君……ヴィン君!」
応答はなかった。かわりに、モニタに表示された一文。
──ヴィン=ヴィラン 我、帝国の砦なり──
その文の下へ、操作ボタン画像が配置されている。ちらちらと誘うように光るボタンを押すと、文は消え、2枚の静止映像が映し出された。
司令室でいつも、天務卿が眺めていた──
一枚は、幸せな家族の。一枚は、父を信じる息子の。
天務卿。あなたは民の父だ。だから。
ヴィンの声が耳に反響する。
……こんな。こんなにも優しいのに。
なぜ、彼が死んだ。なぜ、私がここにいる。
たまらず、モニタをたたき割る。湖石のかけらが、拳を深く傷つけているが、傷の痛みは、もっと鋭い痛みにかき消された。
「なぜ、私はまた……!! ヴィン君……!」
ブロスはただ呆然として、泣き叫ぶ天務卿を見ていた。
これが今の現実なのだと、これが自分の立ち向かうべき戦争なのだと。
初めて、思い知ることになった。