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第3話 「決戦のマクエーク」(前編)
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 黄金の長い髪が、微風をはらんで揺れる。
 朝やみに包まれた広い室、壁には2枚の静止映像が、薄明るく男の顔を照らしだす。
 一枚には、儚げに微笑む若い女性と、腕にとりすがり笑うふたりの幼子。
 もう一枚には、まっすぐなまなざしで敬礼する少年の姿──
「ガル」
 男はうつむき、深い息を吐き出した。

 湖西地区本部マクエーク。
 この圏には古来より、仁務卿の縁者が封じられてきた。
 規模としては大きいが、軍備は万全であるとは言いがたい。
 この地が戦場になるなど、ありえないはずだった。山が三方を囲み、切り通しの崖下にそれぞれ、軍門が設置されている。一方はアフヌマ湖に接している。天然の要害、それで充分だったのだ。蛮族の拠地からも、離れていた。
 しかし数年来、状況は変わった。三方の道の先の圏のうち二つはすでに陥とされた。
 今、マクエークには術法防護が施されている。言霊人でなければ通り抜けできない不可視の網が、すっぽりと石の城壁の外を包んでいる。魂もたぬ物体──たとえば矢など──も、阻むことができる。ひとまずの時間は稼げようが、動力たる湖石は無限ではないし、蛮族のなかには術法に対抗できるようになった者もいるときく。
 金の髪の男が佇んでいるのは、そのマクエークの最上階、司令室だった。

第3話挿絵

 天務卿。ガル=イリルの父親にして、術法を司る天の一族の長、イリル家当主。
 現在のマクエーク駐留軍の司令官は名目、彼ということになっているが、元来研究肌の男であって、こんなところに出る気質のもちぬしではない。
 それが引っ張りだされたこと自体、帝国の黄昏を顕しているといえるかもしれない。
 アフネリア七家議は一角を欠いている。すなわち功務卿。
 功務は空の一族、転送門の守護の司。血族がすべて絶えたわけではないが、数十年前、バルス戦役で先代の功務卿タブ=イノーマを亡くしてから、「七家議の力」のもちぬしが一人も出ていない。
 力なくして議事に列されることはありえない。他国から新しい家が送られるという話が出たこともあったが、いずれの国にも余力は無く、今に至っても空席のままとなっている。
 転送門の管理は、だからかわりに天の一族が統括していた。空の一族でなければ外への門を開くことはできないが、ふだんの運輸通行にはだましだまし、使うことができている。
 マクエークは、問題なく使える門がある圏のひとつだ。
 だから戦線になったとあっては、天務卿が出ない訳にはいかなくなった。
 七家議の議事とは帝国で最高の位だ。しぜん、マクエーク軍の頭、ということになってしまった。

「お呼びですか、天務卿」
 やわらかな声とともに扉がひらいた。
 歩み寄ったのは、鮮やかな紫の髪を肩から前へ流した少年である。
 本来、マクエークの司令官は、彼のほうだ。
 マクエーク都護、ヴィン=ヴィラン。仁務卿のひとり息子。情報の司である人の一族らしく、冷静にして収集力分析力ともに優れ、「七家議の力」も申し分ない。軍学校を出ていないので、正式に叙されてはいないが、誰もが認める次期仁務卿。
 司令権を無理矢理に天務卿に奪われた形になるのだが、そのことで彼が文句を言ったことは一度もなかった。むしろ甲斐甲斐しく仕えている、と見えるのが、しばしば、彼のもとからの部下の不満の種となる。
「ああ、ありがとう」天務卿は瞳をなごませた。「状況はどうかね」
 ヴィンはかるく首をふる。
「良くありません。……物資の補給は、完了しました」
「ご苦労様。少し休んでいかんかね」
 それどころでは、と言いかけたが、天務卿に笑顔を向けられては抗せず、椅子をひきよせて腰をおろす。天務卿はヴィンの向かいへと座った。

第3話挿絵


「実はね。明日から君に補佐をつけることにした。門の整備をしておいてくれないか」
 初耳だった。ヴィンは大きな瞳をみはって天務卿を見上げる。
「明日、ですか?」
「軍学校の卒業式が、今日だったものでね。首席を指名したんだが、統帥に却下されてしまった。次席の子が来るそうだ。相談もしなくて、悪かったね」
「いえ……」
 ヴィンは考え込んだが、すぐ頷いて、
「お気遣い感謝いたします」
 きまじめに礼をする。天務卿は笑った。
「同年代だと思うが。君は、いくつだったかな」
「一四です」
「では、君が年少だな……軍学校には行かなかったのかね」
「……はい」
 ヴィンはかすかに眉を寄せた。
「母が、悲しみますので」
 はっと、天務卿は息をのんだ。
 ヴィンの父親、仁務卿が生徒達に厳しいのは周知だが、それと同じくらい知れ渡っているのが、夫人との不仲の噂だ。家格の釣り合いのみから娶され、互いに何の信愛も持たぬ夫婦関係というのは、天務卿の想像のまったく外にあった。ヴィンが軍に入る前、夫人と共に暮らしていたことは聞いていても、それとこれとを結びつけて考えたことはなかった。
「悪いことを聞いてしまったかな」
 天務卿は気まずそうに言った。ヴィンは首を横に振る。
「いいえ」
 少しの沈黙のあと、ぽつりと漏らす。
「悪いのは、私です。……両親のために、何もできなかった。何もできないまま、逃げ出してしまった」
 何かを含むようにして、下を向く。
 たとえ蛮族を討ち滅ぼし、世界に平和をもたらすことができたとしても、望むものは、きっと手に入らない。そこに居るのは、七家議の誇りに溢れた都護でも、冷徹な諜者でもなく、ひとりの無力な少年だった。
「ヴィン君……」
 子を思わない親などいないと、そう声をかけてやりたかった。だがヴィンの父親は天務卿ではないし、天務卿の息子は、ヴィンではない。ヴィンに言っても、本当に伝えたい相手に伝わるわけではない。
「本当はね」
 天務卿は立ち上がって窓越しの景色を見下ろした。マクエークはアフヌマ湖に近い圏だ。ガルの居る邦都スイモミスクは、湖の中央。ここからは遠くてとても見えないが、方角としてはこちらの筈だ。
「息子を呼ぼうと思っていたんだ。……何もできないのは、私も同じだ。せめて会ってやりたかったんだが、うまくいかなくてね」
 ヴィンは、せつないような気持ちに駆られた。自分が望んでやまないもの、それを持っている人が、すぐ傍らに居る。自分の父親は果たして、こんな気遣いを持ってくれたことが、一度だってあるのだろうか?
「お気持ちはきっと、伝わっているはずです」
 ヴィンは語気を強めた。
「軍務を放って子のもとへ行く七家議など、居るはずがないでしょう? あなたは民の父だ。ここに居てくださって、我々がどれだけ心強いか……!」
 私がどれだけ、救われているか──
 あなたが父親だったら良かったのに、と。
 飲み込んだ言葉を聞いたように、あたたかな手が、ヴィンの髪にそっと触れた。


 マクエークは旧い圏だ。どんな処か、と問われたらいろいろな答えが返せる。名産、出身の著名人、圏の歴史──。だが今や、学校で詰め込んだそれらの知識は、まったく無用のものだった。
 この地図の前では。
 ブロスは戦慄した。
 いつ攻められてもおかしくない。防げない。そうとしか見えない。
「これが……現実なのですか」
 声を震わせるブロスに、炎務卿は無言で頷いた。次席といっても、まだ軍学校を卒業したばかりの少年だ、怖れているのか、と思ったが、そうではなかった。
「許せない……」
 低く、呪詛の言葉をつぶやく。
「蛮族め……我らを殺戮し、蹂躙し、圏を破壊し、なにもかもを奪う気か……!」

第3話挿絵


「たしかに損害は大きいな」炎務卿は頷いた。「マクエーク北方のディスガバンは湖石の集積所だ。あれを取り戻さねば、我がアフネリアも火国ラマナカのように、二人目の子どもは殺せ、との法をつくらねばならなくなるかもしれぬ」
「そんな……!」
 ブロスは拳で机を叩いた。
「そんなことは、絶対に、させない!」
「だが容易ではない。マクエークすら、風前の灯火だ」
「俺なら、みすみす、こんな……!」
 叫びかけて、ブロスははっとした。
 まだ一度も実戦に出ていないひよっこの、言うことではない。
「……失礼しました」
「意気やよし。やはり、この任は君が適当のようだな」炎務卿は泰然として美髯をしごいた。「天務卿からは、ガル君をよこしてくれと、言われたのだが」
「ガルを? 何故」思わず問うてしまい、ブロスはまた首をすくめて恐縮の体を示した。「失礼を」
「秘することでもない」炎務卿はかるく首をふった。
「卒業式に臨席できなかったから、会うため……とは、さすがに思わんが、」炎務卿は言ったが、眉間の皺が深くなったのをみると、そう疑っているのは容易に窺える。「正確には、軍学校の首席卒業者を、と言ったのだ。ガル君には別の任を与えることにした、だからガル君と同等の力をもつ、君だ」
 ブロスは、卒業式の後の、塔での会話を思い出す。通知が遅れたことを、ガルは不安がっていたが、やはり炎務卿は、ガルを信じていないわけではなかったのだ。
「むしろ、私は君のほうに期待している」
 炎務卿は続ける。
「ガル君が首席なのは、確かだ。次期天務だから手心を加えたと疑う者もいるようだが、公正だ。安心したまえ。だが、こと軍の運用や作戦計画に関しては、君の成績は他を圧倒している」
 言葉を切り、炎務卿はブロスの瞳を見据えて、こうも続けた。
「君が、カナの代に出なかったのを惜しむばかりだ。君が封務卿なら、我々と肩を並べて戦えたろうに」
「そんなことは……」
 ブロスは胸がふさがれる思いがした。
 母の名前を、ブロスの前で意趣なく口にするのは、生者ではふたりしかいなかった。そのうちのひとりが炎務卿だ。非難しないわけではないが、すくなくとも、惜しんでくれる。
「半蛮族の俺にその資格がないことは、自分が一番知っています」
「確かに、君には七家議の資格はない。功務すら挙げられない今、君が封務を継ぐことは十割、ありえんな」
 言い切ってから、笑う。
「だからと曰って、君の存在は、帝国に必要だ。ハマナは……封務卿が、君を快く思っていないのは承知している。しかしリンウとは、仲は悪くないのだろう?」
 炎務卿は封務卿の愛息の名を挙げた。
「と……俺は、思っていますが」ブロスは首を横に振った。「本当のところは、わかりません。きちんと話をしたこともないですし、最後にお会いしたときは、リンウ様はまだ五つかそこらで」
「乗っ取りと慮られるくらいの策謀をめぐらせてでも。君には、もっと積極的に、リンウと接触してほしいのだがね」
 炎務卿は笑った。
「それは……」
 ブロスは言いよどんだ。
 リンウ本人の人柄は、疑っていない。母親がああでも、周囲に仕えるのはもとエクスタ家に仕えていた者たちだ。きっと、まっすぐな少年に育つだろう。
 だが。母親のほう、封務卿は、髪のひとすじすら視界にいれたくはない。
 地位と、名誉と、家と、やさしい人々と、命と。
 母が、カナ=エクスタが持っていたものをすべて奪った女。
 そのうえ、ことあるごとに、母を──裏切り者と。
 許せない。
 自分が責められるならいい。存在自体が帝国への裏切りである、俺ならば。だが。
 母を責めるのは。
 許せない。
「俺は」
「……悪かった。そう睨むな、ブロス君」
 炎務卿には、言わんとするところは疾うに読まれている。絶妙な間で遮られて、ブロスは口をつぐむしかなかった。
「だが君がほんとうに帝国を想うなら、心にとめておいてくれまいか。我にどうにか出来ることなれば、しよう。しかしせいぜい、我が手の及ぶのは、君やガル君の代までだ。その先の未来を繋ぎ、リンウ君や、その下の者を守ってやれるのは、多分君しかおるまい」
「炎務卿……」
 ブロスが複雑な顔をしたのを見て、炎務卿は笑った。
「無論、命を捨てる気はまだ、ないが。リンウ君が封務に立つのを見ることは、まず、あるまい」
 炎務卿は軽くブロスの肩を叩いた。
「それが、言っておきたかった。戦況は厳しいが、君には期待している」
 決して、捨て駒にするつもりではないのだと。
 言外に聞こえたような気がした。ブロスはあらためて、炎務卿を見た。
 その言葉こそ、本当に伝えたかったことだろう。
 ブロスは深々と、頭を下げた。


 マクエーク司令室は張りつめた気で満たされていた。
「最悪の現実を貴方のお耳に入れなければならないのは、心苦しいのですが」
 言いながら、ヴィンは天務卿と、室に詰めた部下たちの顔をゆっくりと見回す。
「憂鬱だが。聞かねば対策のとりようがないな」
 天務卿は顔を大壁へと振り向けた。
「では、まず、こちらを」
 と、ヴィンは大きく腕を振るった。

第3話挿絵


 手のひらが紫に発光している。彼の力に呼応して、壁が淡く光り、マクエーク周辺の地図が浮かび上がる。
 帝国の情報システム「ミム」の端末へ、機器を使用せずに指令を与え、望んだ情報を望んだとおりに出力、転送する。これは仁務卿の一族の──「人」の力の一端だ。
「蛮族の数は約5000。ワグモ山道から進軍中です」
 5000、と慨嘆の息が漏れる。
「せんだって、それくらい潰した筈では」
 と声が上がると、
「いや、潰したのではなく、燻したまで。巣穴から散った者どもが、また終結したのでしょう」
 という意見があり、天務卿は頷いた。
「まるで毒虫のようだな。どこから湧いて出るやら、わからぬ」

第3話挿絵


「侮ってはなりません。蛮族の軍としては数は大きくありませんが、もっとも凶悪な者どもです」
 ヴィンはまた手を振った。
「これは、つい2日前、ディスガバンが潰されたときのもようです」
 帝国兵と、蛮族の者たち。帝国兵は通常、一人で蛮族十人には敵することができるとされる。強力な攻撃の術を生身で使うことができる者は今ではわずかしかいないが、代わって、遠くからでも正確に射ることのできる射兵器、光束の刃こぼれしない剣、神々の大戦時の板金鎧の十倍の強度をもつと伝えられる翅生の服──を装備しているからだ。
 しかし映像中で展開されているのは、一方的な虐殺の光景だった。大きな体躯と俊敏な体さばきを兼ね備えた二本足の猛獣ども、振り回しているのは青金の刃もつ貧弱な剣のはずなのに、一閃ごとに帝国兵が刻まれてゆく。一同ひとしく息をのんだ。
「……ありえない」
 よくよく見ると、すべての剣は淡い青や赤の光をまとっている。なにがしかの術法だろうか? 言霊人の翅生の理力を上回るほどの?
 そしてひときわ目をひくのが、漆黒の長い髪をうねらせて走り抜ける男だった。右の手に剣、左手には大きな旗を振り回している。
「これが、竜の戦士か……!!」
 一同戦慄した。
 マクエーク兵はまだ対峙したことがない。名はすべての者が耳にしてはいるものの、姿を目にしたことは、なかった。
 なるほど凄まじいとしか言いようのない戦いぶりだ。あんなに目立つ態をしているのに、帝国兵が誰一人として近づけないでいる。射兵を構えても、味方が邪魔になる、そういう位置にすぐ走り込んでしまう。
 まさに戦場を駆ける、変幻自在の竜。
 その彼に気をとられると、背後から別の蛮族にばっさりやられるという寸法だ。
「だから、ディスガバン都護は、七家議の力を使わざるをえなかった、というわけです」
 ヴィンは言い、天務卿を振り返る。天務卿はあきらかに目線をそらした。


 すべての言霊人は、特定の言葉を発することで、世界になにがしかの影響を与えることができる。それが、術法だ。そもそも言霊人という名前が、この力をもつゆえにつけられた。
 力を失った者は忘人(チャーズ)と呼ばれ、帝国から追放されてしまう。言霊人にとって、術法が使えることは己の存在と同義なのだ。
 言霊人を束ねる七家議、その議事となるためには、さらに特別な力を持っている必要がある。その力は単に「七家議の力」もしくは「資格」と呼ばれる。こちらも、力を持っていることが、イコール七家議であるということだからだ。

 七家議の力について、詳細に語ることは無意味である。各家の司る属性に応じた力であることだけは確かだが、どのような形でどれくらいの威力で発現するかは、使ってみないとわからない。
 そして力を発現した者は、ほとんど例外なく、命を落とす。
 民からは、七家議の力とは「己の命と引き換えに多数の帝国臣民を守ることのできる力」であると、認識されている。たしかに帝国の民にはまったく無影響のまま敵だけを倒す場合が多いが、味方ごと鏖殺した例もある。
 七家議の力があるかないかは、幼い頃に「ヴァルナ・ミム」によって測定され、ある、と認定された者のみが七家議の有資格者となる。無い者はたとえ現七家議の嫡子であっても、位を継ぐことはできない。

 ディスガバン都護は、水の家──アフネリア邦王に連なる家の者だった。家格は高くないが、七家議の有資格者であったゆえに、要衝に配されていた。果たして、七家議の力を使うことになったわけだが、
「発現のしかたが悪かったのか、威力が小さかったか、完全に発現する前に倒されてしまったのか……。とにかく、蛮族にほとんど打撃を与えられなかったようです」
「……都護は?」
「亡くなられました」
 ヴィンは瞳を伏せた。
 現天務卿と、次期仁務卿であるヴィン。両名も、いざという時には、ディスガバン都護と同様、命を捨てねばならない。七家議が前線に出るというのは、そういう意味なのだ。
 しかし、たとえ命を捨てても、無為に終わった例が、ここにある。
「ゆゆしき事態と申し上げたのは、そういうことです」
 ヴィンが言うと、司令室は重苦しい沈黙にふさがれた。


「なぁ、お頭ぁ」
 左腕を麻布で吊った男がのんきそうに声を投げかける。
「俺は竜の戦士だそうだぞ。お頭ってのは、そろそろ人聞きが悪いなぁ」
 相対する竜の戦士は、ほとんど無傷だった。……言霊人の兵器は人体を物理的に破壊するものばかりではないから、傷を負ってなお生き残る者が、むしろ珍しい。
「なんだ。その呼び方、実は気に入ってるんですか」
 若い男がけらけらと笑う。彼はディスガバン攻めで頬に大きな傷が出来た。山賊っぽくなって凄みが増したと、おおはしゃぎだ。
「で、何の用だ?」
「へぇ」
 左腕を負傷した男は、水をがぶがぶと飲みながら続ける。
「いや、他でもねぇ。ほんとにこのまんま、攻め上るんスか? まだ、ムラガさんと約束した期限には早ぇでしょ」
「んー、はずみで一つ、圏、陥としちまったからなあ」
 ディスガバンのことだ。寄るつもりはなかったのだが、道に迷った隊が居て、糾合していたら帝国軍に見つかった。それで攻めてみたのだが、
「ありゃ、将が無能だな。軍才ゼロだ。まさか敵弾ひとつ落ちてるとは思わなかったが、あれじゃあなあ」
 ディスガバン都護のもつ七家議の力は、大津波という形で発現した。だが竜の戦士の隊の者は、ほとんどが黒竜の民だ。なかに竜神ナーガの神官が居て、うまいぐあいに打ち消してしまった。
「敵に同情する訳じゃねぇが、無駄死にだな、ありゃ」
 身も蓋もない言葉を投げ出してから、竜の戦士は若干、表情を引き締める。
「たまたまだな。次もこうだとは、思わん方がいい。水だったから、泳げれば時間が稼げたが、他だと手を打つ前に炭になってるだろ」
「分かっててなお、行くんスか」
「成り行き上、仕方ねぇな。今回ばかりは、ハラくくってくれ」
 竜の戦士は、ディスガバンの倉から拝借した石をとりだして、陽光に透かした。
 乳白色、半透明の美しい石だ。角度を変えると、中でとりどりの色が反射する。竜眸石──帝国では湖石というらしい。ふつうの人にも宝石として価値が認められているが、神官達にはとくに宝器の材料として珍重されているものだ。
「これを襲ったことになっちまったんだ。『水晶剣』のいう、帝国のあらゆる宝器の霊力源だな。これを奪うっつのは、俺らの言う『逆鱗に触れる』てやつだろう。今、散って隠れたら、湖の人方(北東)一帯が更地だぞ。今、ここに5000ぐらい居るか──この5000の命を擲っても、10万の民の命を贖わなきゃならん。今は、そういう事態だな」
 きわめて深刻な事態を告げながら、からからと笑う。
「ま、逃げたい奴は今逃げといてくれ。俺はいつも、ここが死地か、と思って戦ってるんだが、今回こそほんとうになりそうだからな」
 縁起でもないこと言わないでくださいよ、と誰かが言う。どっと笑いが起こった。

 竜の戦士の言を、誰も本気だと思っていないのだ。

 彼のまわりはいつも奇妙な明るさに包まれていた。浮ついた、と言うべきかもしれない。絶望に墜ちるのがばかばかしくなるような。狂乱の、という言葉を使う者も居た。足元が崩れているのに、気づかず踏みだして、手ではばたいてみたらなぜか墜ちずに飛べました、という類の──ありえないことを可能にする。そんな陽気。
 彼ならばなんとかしてくれる。運悪く己の命ひとつ落としたとしても、その死は意味を持ち、未来へと続く礎となる。不敗の強将、不死身の戦神、──それは、もはやひとつの信仰だった。彼ら皆の願望が縒り集まって生み出した、伝説であったのだ。


gyokuei / 20070514-1530

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