「卒業生首席、ガル=イリル」
「はいっ」
やや緊張のおももちで立ち上がった少年こそ、次期天務卿、ガル=イリル。
引き締まった細身の身体つき、黄金色に輝く長い髪、髪とおなじ金色の瞳。きまじめなふうの、いかにも言霊人らしい美少年で、ゆくゆくこの国を支配する者としての風格は充分だ。
右手を前に突き出し、ついで肘を折って胸の前へ。軍式の基本の敬礼。
「……」
事前に充分に予行演習がなされていたとはいえ、動きが固くなるのは否めない。軍学校卒業生四十名余、彼らすべての資質を、貴賓席の七家議にはガルの動きひとつで示すことになるのだ。
「ガル」
隣席の、紺色の髪の少年が、他に聞こえぬようそっと声をかけた。
むろん彼も、見えない柱に背をはりつけるようにして、まっすぐ正面を向いて座ったままだ。
「堂々としてろ。君なら、大丈夫だ」
うん、と、喉だけでかすかに頷いて、ガルは前へと足を踏み出す。直角に方向を変え、一礼して、壇へのぼるための階段へ。焦らず、遅れず、歩数を間違えないよう、慎重に──
「彼が、『あの』、天務の息子ね」
彼を見つめる貴賓席の中に、冷たい瞳が一対、あった。
七家議とは帝国における統治の最高機関である。尊い七家でもつ会議のこと、転じてその七つの家のことをもさす。その会議に出席できる各家の当主のことを議事という。または、議事ひとりひとりをさして七家議と言うことも多い。ガルの父親、天務卿も七家議のひとりである。
臨席の七家議は3名。軍の統帥たる炎務卿、法の番人である治務卿、それに今は邦王補佐である封務卿。さらに右に空席がひとつ。棘のある声を洩らしたのは、封務卿である。
「『あんなこと』があったのに、立派にお育ちになって……なかなか凛々しいじゃない」
「……む」
炎務卿は不快そうに眉をしかめる。封務卿の独白は、左右にしか聞こえていない。
(それに……)
じろりと睨む炎務卿にかまわず、封務卿は瞳を別のほうへ、滑らせた。
先ほどガルに声をかけた少年を凝視する。
厳粛な式の中で声を発したおこないを憤った──というわけでは、無い。
言霊人にしてはずいぶん背が高く、がっしりした体格、濃い色の肌、紺色の髪をもつ──
(あれが、裏切り者、カナの息子)
封務卿は、美しく染めた唇をつりあげて笑った。
覚えたくもないが覚えている。名前はブロスと言う。彼も今年、卒業して軍に入る。
彼女にとって、それは何よりも忌まわしい現実だった。
席の位置からして、次席。
いや。首席がガルなのは、家格の配慮も入っているかもしれない。実際の成績はブロスのほうが優秀である可能性も、考えられる。
(忙しくなるわね……)
……不愉快なものからは目をそらし、壇上に至ったガルへと、視線を戻す。
ガルは仁務卿と正対していた。
「これより卒業章を授与する」
七家議のひとり、仁務卿は軍学校の校長だ。きわめて事務的に口上を述べると、ガルに徽章の入った箱を差し出す。ガルは箱をおしいただき、卒業生はいっせいに立ち上がって敬礼した。
「でも」
と、封務卿は先ほどの独白の続きをはじめる。
「天務卿には幸運だったかもしれないわね。『あの事件』のおかげで、法案も可決。寐床(ペーレ)の数も無事、確保できたんですもの。ねぇ」
「……いい加減にしないか!」
冷静な統帥と名高い筈の炎務卿が、激発して腰を浮かせたので、ガルは驚いて思わず貴賓席に目をやった。それまで黙っていた治務卿が、苦々しげに声をあげる。
「壇上ですぞ。七家議ともあろう方々が、みっともない」
炎務卿の激発には理由があった。
ガルの父親、天務卿のことだ。平時ならば、軍学校の卒業式には邦王以外のすべての七家議が列席する。だが今は戦況が許さなかった。一人息子の卒業の時だというのに、帰還を命じることができなかった。それで、苛立っている。
封務卿もむろんそのことはよく知っている。知っているから、わざわざ逆撫でするような真似をしたのだ。
「うむぅ」
押し殺すように唸って、炎務卿は腰をおろした。封務卿はニヤリと、笑う。
ガルは貴賓席のひとびとの会話は、知らない。
ただ、父親が居ないことは、気に掛かった。
貴賓席に、椅子だけは4人分用意されている。その4つ目の、空席。
「父上……」
だが、しかたのないことだ。
気を取り直して──
壇をおり、席に向かうときには、役目を終えた喜びが、心を満たしていた。
最後の敬礼を忘れずに……すわって。
隣の親友と視線を交わす。
ブロスは、笑って頷いてくれた。
帝国暦296年。
ガル=イリル、アフネリア軍学校を卒業。
彼に待ち受ける数奇な運命を、この時はまだ、誰一人として知る由もない。
まつりのあと……と、いうべきか。
教室は浮ついた虚無感に満たされていた。
ここでやるべきことはもう、なにもない。手持ち無沙汰だから、片端から端末を初期化して回る。
他の生徒たちは、親族と語らったり、友人と別れを惜しんでいる。だがガルに話しかける者は、ない。
軍学校に入るには資格が要る。家格と、力を試されて入学している。それでも、ガルの毛並みのよさは他をよせつけないものだ。当人に隔意がなくとも、皆、避ける。
また、黙って頭だけ下げて、行ってしまう。
「あ……」
最後だけでもと、声を掛けようと思ったけれど、適当な言葉がみつからない。
ガルはうつむき、次の端末へと、目を向けた。
そのとき、廊下を走る足音が聞こえた。
他の誰より切れのよい足取り、この走り方は……ブロスだ。
ガルは立ち上がる。
扉をいきおいよく開いて駆け込んだのは、やはり。
ブロスは軍章を投げ上げた。手の甲に押さえ込んで、ガルに差し出す。
「んー……表」
ガルが言うと、ブロスはばっと掌をあげる。
「残念。裏だな」
にやりと笑ってから、その軍章の本来あるべき場所、己の左胸へとつけ戻す。
「俺の136勝、30敗だ」
「ええっ?31敗のはずだが?」
ガルが芝居がかった調子で抗議すると、ブロスは大声をあげて笑い出した。
ガルも、笑う。
これが、ふたりだけの、いつもの儀式だった。
「そうか、出撃先が」
決まったのか、と、ガルは感慨深げにつぶやいた。
ふたりはフルコールの塔に来ていた。邦都スイモミスクの中でも高台に位置する軍学校、その端にあるひときわ高い塔だ。アフヌマ湖中に没する夕陽はアフネリア名勝三〇選に数えられるほどで、何度見ても、飽きることがなかった。何より、好んでここに来る者は、彼ら以外には居ない。
「都護の補佐だ。明日、発つ」
と、ブロスは夕陽を見つめたまま、言った。
「明日。ずいぶん、急だな……どこだ?」
「マクエークだ」
マクエーク、とガルは反芻する。最近聞いたような地名だ……と、記憶をたどる。
すぐに思い出した。他でもない、ガルの父、天務卿が今赴任している圏ではないか。
「戦況、悪いのか」
さあな、と呟いたブロスは視線を落とした。
ここからはスイモミスクの市街が一望できる。店も通りも広場も活気があって、とても戦争をしているとは思えなかった。
ブロスは顔をあげた。
「君の方はどうなんだ、ガル。スイモミスクから離れないのか?」
「分からない」
即答に、ブロスは驚いた。
「分からない? まだ決まってないっていうのか?」
ガルはうつむく。
「そうか……」
ふたりは沈黙した。
次席のブロスに都護の補佐という大任が与えられているのだから、首席たるガルに何も沙汰がないはずがない。
だがガル自身と、ブロスには思い当たるところがあった。
ガルには、軍学校に入る以前の、幼い頃の記憶がないのだ。
悲しい事件があって、ガルは、ひとたび心を閉ざした。どんな事件であったのかは、周囲のひとびとは誰も教えてくれない。すべてを忘れることによってのみ、ガルはふたたび、人らしく振る舞えるようになったのだと、あとから聞かされた。
すべてを思い出し、乗り越えるまでは、軍政に携わることはできない。
──と、炎務卿あたりが判断したとしても、おかしくはない。
これからどうなるんだろう、と、ガルが呟いたとき、
ピンポーン
呼び出し音が鳴り響いた。構内中に聞こえる音だ。
ついで、女性の声によるアナウンス。
「指令番号三一一。ガル=イリル様に呼び出し。可及的すみやかに、校長室に向かってください。指令番号は、三一一です」
「杞憂だったみたいだな」
ブロスは笑った。
「あたりまえだな。あの炎務卿が、お前を放っとくはずがない」
「……そうかもな」
ガルも、ようやく笑った。
「この空も、今日で見納めか……」
「大袈裟な物言いだな。永劫の別れじゃないんだ」
ブロスはまっすぐに背筋をのばし、軍式の敬礼をする。
「ガル。健闘を、祈る」
「ありがとう」
ガルも、敬礼を返す。
「武運を、祈る」
そして、べつべつの道へ向かい──2人は、歩き出した。
「遅い!」
入ったとたん、いきなり、怒声を浴びせかけられた。
部屋の主は、さきほどガルに卒業章を渡した仁務卿、その人だ。気が短くてすぐ怒鳴りつけるので、生徒からはあまねく嫌われている。ガルは数少ない例外だったのだが、さすがに気分を害した。
抗弁しようとして、もう一人先客が居るのに気づく。赤き美髯もつ偉大なるアフネリア統帥、炎務卿だ。
炎務卿はあきらかに苦笑の表情をしていた。
「彼は先刻、我が部下になったと思ったんだがね。もう貴卿の生徒ではない、仁務卿」
「指令発から四半刻もかかっている。これが首席か。我らの未来をこれに託すかと思うと、嘆かわしい」
「構内は広い。たとえばあの塔などに居れば、いくら急いでもこれくらいはかかろうて」
一部始終見られていたのか、とガルは瞠目したが、何のことはない。ガルは知らぬ事だが、軍学校時代の同窓である炎務卿と仁務卿のふたりも、当時はよくフルコールの塔を活用していたのだった。しぶしぶ黙り込む仁務卿を横目に、炎務卿はガルに手を差し出す。
「まあ、座りたまえ、ガル君」
「恐縮です」
ガルは一礼し、示されるまま榻に腰掛けた。
「君は、いずれは我ら七家議の一角を担う。父君がご健在の間は、継承はないが、その徽章を得た以上、」と式で渡された卒業章を指す。卒業章はそのまま階級章となる。「議事と認定されたも同じことだ」
「ありがとうございます」
「有難がることでは、ないな」炎務卿は微妙に首をかたむけた。「その自覚を持て──と言っているのだよ。何事をなすにも、ついてまわる。それが我らの宿命だ」
「はい」
ガルは大きく頷いた。炎務卿も、そして仁務卿も、ガルと同じこの軍学校を出て、軍から七家議へと上った、いわば直系の先輩にあたる。あらゆる試練を超えてその地位にある先輩からの訓辞は、心強かった。
「さて君への辞令だが──」
と言った炎務卿の表情が、にわかに曇る。
「とりあえず、見ておきたまえ」
炎務卿の視線を受けた仁務卿が手を振った。照明が消え、机の上に嵌め込まれた湖石のモニタがアフヌマ島の形の光を映し出した。
「わかるかね、ガル君」
言われて、まじまじとのぞき込む。
地図だ、とはすぐ分かったが、明滅するとりどりの光の意味が分からない。
言霊人の帝国の街を圏、蛮族の街は邑という。圏と邑とで分けたら、こんな配置にはならないはずだ。
「分からぬなら、言おう」
炎務卿の眉がいっそう曇った。
「これは現在の戦況を示したものだ。青はいまのところ安全な圏……黄色は交戦中。赤は既に蛮族の手に落ちた」
「ええっ……!?」
ガルは息をのんだ。
ではこれは何だ。
首席であるガルは、地図を読む能力も学年で一番だった。
ひとめで分かった。絶望的だ。
語が継げないガルを見やって、炎務卿はため息を吐き出した。
「お父上が来られなかった訳も、わかってもらえたかね? これが、我々の帝国の、現状なのだ」
かろうじて頷いてみせて、ガルは、目を地図上に泳がせる。
親友が、明日行くと言っていた……
マクエークの色は……
黄色。
まさに今、侵攻を受けている……?
「ブロス……!」
ガルは身体を乗り出して、かすれた声で喘いだ。