しゃり、と響いたのは期待より幾分硬い音だった。
ち、とかるく舌打ちして放り投げる、その青い梨の実は、きれいな放物線を描いて、歩み寄る男の面の真ん真ん中を打つ。
「あ」
と声はあげたものの、悪びれる様子も、謝罪のひとことすらない。
被害者の男はあきれかえった。
「あなたのことを、都奴どもがなんと呼んでいるか、ご存じか」
「知らん。何だ」
「竜の戦士、ですよ」男はさも不愉快そうに眉をひそめて言った。「つまり、われら黒竜の民を統べるべきは、あなたであると」
「ますます、知らん」
不快そうな顔をしたのは、こちらはさきほどの梨の酸い汁のせいだ。
梨をぶつけられた男──サド・ムラガは、旅装を解かぬままの態で、跪く。竜の戦士はからからと笑った。
「とうとうお前まで、それか。気持ち悪いな」
「あんたの快不快は関係ない。おれは、つぶさに聞いた──」
ムラガは声を張り上げた。
そもそもの発端は、数百年前、神々が言霊人の帝国へと世界を譲ったことであると、伝説は曰う。説がどこまで真実を伝えているかは検証の余地があるにしても、今、神人たちが帝国の支配下にあるのは確かだ。
支配、といってもごく緩やかな支配だった。他地との交易と移動が制限され、勝手な貨幣の発行ができぬくらい。多少の不便はあっても、それだけだったから、あえて帝国を打ち倒そうという者はいなかった。
神人たちの身体そのものに危害をなすことは、ほとんどなかったからだ──これまでは。
関係が崩れたのは、ほんの数十年まえのこと。
バルス戦役、と史書には書かれる。
言霊人(イシス)と神人(ホルス)とが入り交じり、穏やかに暮らしていた圏、バルス。圏とは帝国の城塞都市のことだ。繊細にして壮麗な牆壁で知られる芸術の街だった。功務の一族の居地であり、当時の功務卿はとくに芸を好み、美を生み出す者であれば種族を問わず重用した。
しかし七家議は功務卿のおこないを帝国に仇なすとして弾劾。時の統帥、封務卿イェリル=エクスタ率いる軍により、市街は完膚無きまでに破壊され、住民は言霊人と神人とを問わず、鏖殺にされた。
以来、帝国は神人を家畜でもひねるように殺すようになった。
バルスの例のような大規模な虐殺が、頻繁にあるわけではない。しかし、神人の邑で問題が起きたり、要求を発したりすると、ただちに邑ごと焼かれる、といった事例がたびたびおこるようになった。その頻度は、年を追うごとに、上がっている。
「ん?お前が行ってたのは、ナーウルだったか?」
竜の戦士は無精ヒゲだらけの顎をぞろりと撫ぜた。
ナーウルはアフヌマ湖に面する、美しい港町だ。いまのナーラダの邑でもっとも人口が多いので都とも呼ばれるが、他の邑への影響力があるわけではない。
むしろさらに人方(人の方位:北東)に位置するターヌの方が、邑どうしを繋げるべく蠢動していた。ターヌには「竜老会」がある。長老の寄り合いだが、一族全体の指針、とくに子弟の教育に関して通達を出すことができる。言霊人の居地からも遠く、近隣に門もない。ゆえに帝国軍の攻撃を受けにくく、独立運動の事実上の拠点となっている。
ムラガは、ターヌへ物資の調達を要請しに行くと言って出たはずだった。
「寄ったのですよ。ちょうど、ロホウの難民が居た」
「ロホウか……」
ナーウルの五粁(キロ)ほど先の邑だ。竜の戦士とは別の隊が、拠点にしていた。
「壊滅したとは、聞いた」
「無茶苦茶ですよ。夜、空が明るく光ったと思ったら、次の瞬間にはもう、家は跡形もなかったと。それが何十度と続いて、逃げ出せたのはほんの数人だったそうで」
「何十度と──か。そりゃ、兵器にしろ、術にしろ、通常のやつだな」
竜の戦士は嘆息した。
「サンジャめ、死ぬときには敵弾を道連れにしろと、あれほど言ったのに!」
「そんなことが出来るのは、われわれ──いや、あなただけでしょうが」
ムラガは容を正す。
「残兵も一人だけ居ました。接触したが、彼らも『水晶剣』から情報を得ていた。同じ情報だった筈だ。我々は、ホウサイとヤートゥを救うことができた。彼らには、できなかった」
「奴らが無能か、俺の運がたまたま良かっただけだ。次の保証は、できん」
「民はそうは見ませんよ。すくなくとも、ナーウルでは」
竜の戦士はくの字に眉をあげて渋面をつくった。
「ますます、想像したくないな……いったい、どう騙られてるやら」
「だから『竜の戦士』だと申し上げているじゃありませんか」
ムラガは繰り返す。
「皆の希望の光、一族の英雄様ですよ。そろそろ観念したらどうです」
竜の戦士は、また──手を伸ばして、梨をもいだ。
「おかしなことを言うやつだな。お前は竜老の飼い犬だろう。俺を監視するのにここに居るのだとばかり思っていたが」
「あのありさまを見りゃ、だれだって皆とおなじ心情になります」
ムラガは言葉をあらため……口についた汁をぬぐうのを目に入れて、げんなりと首を垂れた。
「なあ、『竜の戦士』さんよお」絞り出した声は苦渋に満ちていた。「おれは、いちおうあんたを尊敬してるんだがね。これでは……悪党どころか、悪ガキの所行だ!」
「なんだ、お前は俺に謝って欲しいのか?」
対し、竜の戦士は涼しい顔だ。「何の言葉をのぼらせたところで、落ちた梨が成るわけでもあるまいに」
「落ちたんじゃない、あんたが盗んだんだろうが!」
声を荒げてから、ムラガはその無為を悟って首を横に振った。
「言いたいのはひとつだ。自覚を持ってください」
「やなこった」
梨を一口囓る。こんどは甘かったらしく、眉をすこし開いて、ムラガを見上げる。
「人間、エラくなったとたん目線が変わる。目線が変われば、もはや同じ判断はできん。俺の断がすべて正しいとは思わんが、よけいなものをくっつけてみろ。別モンになるぞ。別モンの俺に何の価値があるんだ?」
もっともらしいことを言っても。
しゃり、と響くのは瑞々しい音。
ロホウの難民の訴えが、重なって耳に残る。
救ってください、我々ナーラダの民を。あの方しか、もはや居ない。
「……が、けちな梨泥棒とは……なげかわしい」
ぜったいに、彼らには見せられない。
ムラガはがっくりと、瞳を落とした。
「どうやら、マクエークだな」
竜の戦士は地図を睨んだ。
「『水晶剣』の情報は残念ながら、今回も正しかった。ホウサイ、ヤートゥの二邑は、しばらくあてにはできんだろう。すると」
ホウサイ、ヤートゥを結ぶ道の中央、そこが今彼らの居る小さな邑だ。ここには竜の戦士はじめ二十名ほど、他の者たちは森中の廃村などに別れて潜伏しているが、
「とても食えない」
「その為にあんたが出たんだろう?」
若い戦士に言われ、ムラガは頷いた。
「竜老は要請に応じ、伝令を出してはくれたが、おれたちを養える余裕は、こちらにはないそうだ。一日二日なら、」とムラガはホウサイより風方(風の方位:南)へ指3本ほどにある邑を指す。「ここにもあるそうだが、それ以上となると──」
指をさらに風方へ──帝国の圏、マクエークの向こう側だ。
「要するに、堕とせってことだな」竜の戦士は、腕を組んで唇をゆがめた。「竜老どもめ、己が何を言っているか、分かってるんだろうなぁ?」
「圏ひとつ──という理解かと」
ムラガも渋面をつくった。「おそらく、圏ならどこも同じだと思っていますよ」
「馬鹿な。我ら神人の邑だって、ナーウルとここほど差異はあるというに」
「そこを説得するのが、ムラガさんの役目でしょ」
他の戦士に言われて、ムラガは首を横に振った。
「軍略のことも、帝国のことも、何一つ理解できない。ありゃ、すでに狂信の域だ。子供らに我らの正義とやらを喧伝するあまり、自身の脳みそまで逝っている。……とはいえ、糧食が無いのは事実。ここを放棄して水方(水の方角:北)へ寄るか、マクエークを堕とすか、二択になろうかと」
「マクエークだ」竜の戦士は、きっぱりと言った。「撤退は、ありえん。ロホウの件で分かったろう。もはや猶予は、ない」
「正気ですか?」ムラガは目を見開いた。「おれは反対しますよ。むしろ水方へ上って、ターヌ竜老を討つほうがよほど建設的だ」
「ではお前はもう一度ターヌへ行け。水方から物資を調達する手配をしろ」
「無茶だ」ムラガは声を張った。「あんたのいう敵弾2発を、同時に斃そうというのか」
「いずれは倒さねばならん敵だ」竜の戦士は妙に静かに言った。「今倒せぬなら、1年後でも倒せんだろう。その間に幾万の民が殺される」
「だからといって……!」
言いかけ、ムラガは首を横に振った。
「わかりましたよ。ただし、5日待って下さい。その前におれが糧を持ち帰ったら、マクエーク攻めは中止。よろしいか」
竜の戦士はうなずいた。
とぼしい糧を割いて飯をつくる。炊ぐ煙が薄く森を貫く……帝国軍がこれを見つけて攻めてきたらことなのだが、どういうわけか、一度派手に動くと翌日は動かないのが、常だった。動かないのではなく、動けないのだろう。
他にも不可解なことがある。帝国軍は、神人の輜重車を襲うことがないのだ。正々堂々正面からしか戦わないポリシー……と考えるのは神人の思考だ。夜襲、奇襲の類はあるのだから、そもそも人はモノを食わなければ生きていけない、ということを知らないのかもしれない。
言霊人と神人とは違う生き物なのだ。外見が似ているからといって、騙されてはいけない。そう竜の戦士に教えたのは、『水晶剣』と呼ばれる諜者だった。まだ小娘だというが、帝国の事情や動向については神人の誰よりも詳しい。帝国の軛から逃れたいと願う言霊人を手引きするのが、彼女の生業らしかった。
「あのぉ……?」
困惑したような声に振り返って、竜の戦士は渋い顔をした。
戦士に連れられ、見上げてきているのは平服の少年。見ない顔だ。この家の者だろうか。梨の件か?
「あぁ?なんだ」
粗野そのもののぞんざいな返事、高みから投げおろされた不機嫌な瞳に、少年は怯んだ様子で一歩、退いた。が、掌をぎゅっと握りこんで、押し返すようにまた、見上げてくる。まっすぐな目だ。
「ぼく……戦います!」
「は?」
竜の戦士は眉をひそめた。
……そういう手合いか。最年少記録を更新したな。
「坊、おうちは何処だ」
「出身ですか?ターヌです」
……ムラガですら往復5日のところ、少年で、歩きとなるとどれほどだろう。
厄介な、とわざわざ聞こえるように舌打ちしたが、少年には通じなかったようだった。
「何でもします……ぼく、どれくらいお役に立てるかわからないですけど、でも……っ、がんばりますっ!」
「……1つ、質問するが、いいか」
「はいっ」
元気だけはいい空返事。
「命の価値は?」
「え?」
少年は目をぱちくりさせた。
「お前の命の価値だ。どれくらいある」
「え、ええっと……」
「分からんのか。じゃ、要らんな」
竜の戦士は虫でも追い払うように手を振った。少年は慌てた。
「ええと……半人前……でしょうか……」
「俺の見たところ、まあ、数百分の一だな」
「す……」
少年は絶句した。
「塵芥も同じだ。吹けば飛ぶ」
ふっと、口をすぼめて息を吹きかけてみせる。少年はあとじさった。竜の戦士はめいっぱい唇をゆがめて悪い笑顔をつくる。
「ほらみろ」
「り、理由をっ……!」
少年は踏みとどまって、叫んだ。
「理由を聞かせてくださいっ! ぼく、やる気はあります! なのにどうして、数百分の一って、どうして……!」
「今ここでは何も寄越さぬと、自分で言ったじゃねぇか。それで自尊心だけは人一倍か。余計要らねぇな。とっとと帰れ」
これ見よがしに酒瓶をつかみ、ぐぐっと飲み干す。酔眼を剥いてみせると、少年はしおしおと、木立の蔭にかくれてしまった。
「珍しいですな」
ムラガはにやにやと笑う。
「俺がいたいけな子供にあたったと、そう見えたか?」
竜の戦士は憮然とする。「あたりまえだろう。我ら戦士は命を擲ちに行くんだ」
「そうでは無く」ムラガは首をめぐらせた。悄然と立ちすくむ少年は、瞳を空に向けてこらえるような唇をしている。
「おれに、家まで丁重に送り届けろ、と。珍しい」
ムラガはひどく薄い笑みをふくんだ。
「数百分の一の塵芥の命のために、おのが命を捨てるごときの輩は、すでにこの世に亡いでしょう。残った者どもは、あなたが見捨てろと言えば、躊躇無く彼を見捨てる。なのに、何故庇うか、と」
「らしくない、か?」
竜の戦士はあごをさすった。
「……だよなぁ、俺もそう思うしなぁ」
いつになく決まり悪そうに……吐き出した言葉は。
「ガキが、たぶんあれぐらいだからかなぁ」
寸分をおいてその語の意味を理解し、ムラガは目を剥いた。睨むように見上げると、竜の戦士は、慌てて頭上に雲を探す。
「いや。一度も、会ったことはないが。……どうやら」
いるのか。妻子が、これに! 物好きな女もいたものだ、とムラガは呆れた思いで息をつく。
「軒下に住まわったおぼえもないんだが、故郷にな。生まれたと、一度だけ書簡をよこして、それきりだ」
竜の戦士が口を噤んだので、ムラガもそれ以上追及することはなかった。
翌朝、ムラガは少年を連れて水方(北)へ、竜の戦士とそのほか手勢は風方(南)へと、進む道を違えた。
去り際、竜の戦士のようすは普段と変わらなく見えた。ただ、剣を佩く帯布の色が眩しく見えたので問うと、古くなって切れたので換えたと言う。抜ける蒼天のもと、屈託なく別れたのだが、それが、ムラガが竜の戦士の姿を見た最後となった。